👆この記事のつづきです。
(書きかけのまま、放置してあった~💦)
スリランカに渡航した当初の目的は、瞑想の師のいる仏教系の瞑想センターで6か月、瞑想をしようと思っていたからだった。
けれども(いつものことだが)物事は予定していたとおりには流れず、渡航してわりとすぐに、なぜか前述のアーユルヴェーダのホテルに運ばれ、そこでヨガのクラスを担当しつつ3年暮らすこととなった。
それから、「ハートに従う」ということを心掛けるようにしていたのだが、ホテルに住んで2年余りが経った頃、胸のまんなかあたりに、「つかえ」のような感覚を覚えるようになった。
最初はたしか、ヨガの自主練をして、胸を開くポーズをしているときに気づくようになったのだったと思う。
だんだん頻繁に気づくようになり、その「つかえ」に意識を向け感じ続けると、むせるような咳が出たり、あくびが出たり、またはげっぷが出る、というようなことが起きるのだ。
咳が出るときには、「胸から出ていきたいものがあるのに、なかなか出ていかない」という感覚が残る。
あくびは、つかえの感覚が、いくらか楽になる。
げっぷが出ると、胸はゆるみ、つかえはとれる。
……ということに気づいた。
思えば、そのあたりから、停滞していた「胸のエネルギー」の解放が始まったのかもしれない。
その後、いつどういう経緯をたどったのだったか、詳細はもはや思い出せないのだけれど、それからしばらく経った頃(どのくらい経った頃かも思い出せない)には、わたしは、胸のあたりに常に悲しみがある、ということに気がつくようになっていた。
何かに注意が行っていて、それがそこにある、ということを一時的に忘れる瞬間、というのは、もちろんあった。
たとえば、だれかとおしゃべりしているときなど。
けれども、その一時が過ぎると必ず、ひたひたとした悲しみが、視界に戻ってくるのだった。
当時、その悲しみについて、「バックグラウンド・ミュージックのようだ」と思ったものだ。
日々のなかでくり広げられてゆく物語がどんなものであっても、わたしの見ているその世界の背後には、悲しみの旋律がずっと、ときにかすかに、ときにそれよりは強く、流れているかのように感じられた。
静かに座り、瞑想しようとすると、それは吹き出る泉のようにあふれ出してきた。
「感情は、感じ切ると消える」などと聞いたことがあったので、積極的に感じようとくり返し試みたが、いっこうに消えそうになかった。
いつかは終わるにちがいないとは思っていたけれど、いつまで続くのかしら、と何度も考えた。
もう詳細には思い出せないけれども、この状態はたぶん、2年以上続いたのだったと思う。
つづく。
……今度は、あまり遅くならないうちにつづきを書くつもりです💦
追記。つづき書きました。👇