「バジュランギおじさんと、小さな迷子」という映画を観てきた。
主演は、インドで三大カーンと呼ばれる人気俳優のひとり、サルマン・カーン。
2015年のインド映画なのだが、日本で劇場公開された2019年当時、わたしはまだスリランカにいて見逃してしまった。
以来、いつか見たいと思い続けていたけれど、配信もされていないし、近くのレンタルショップにもないし、気づけばDVDも絶版だし、という状況であったので、SNSでリバイバルの知らせを見たとき、とてもうれしかったし、公開をたのしみにしていた。
カシミール地方のパキスタン側、山岳地帯に住むムスリムの女の子シャヒーダーは、耳が聞こえないわけではないのに、6歳になってもひと言も言葉を発することができない。
心配したお母さんは、願いが叶うと有名なムスリム寺院に詣でるため、娘を連れてインドへ赴く。
ところが、無事に巡礼をすませ、パキスタンへと帰るために乗った長距離列車が、国境を越える手前の草原で調整のために長時間停車する。
夜中のことで、乗客は皆寝入っているなか、目を覚ましたシャヒーダーは、線路脇の草むらで子ヤギが鳴いているのに気づき、気になってつい下車してしまう。(彼女は、ヤギの放牧で生計を立てている一家の娘なのだ。)
……映画でこのような事態になったら、もう展開がおわかりと思う。
そう、彼女が子ヤギをなでているあいだに、調整を終えた列車は出発してしまうのだ。
夜中の草原にひとり取り残されたシャヒーダーだったが、運よく(?)すぐに貨物列車がやってきて、おなじ場所に停止した。
けれども、彼女が乗り込んでまもなく走り出した列車は、パキスタンへと向かうものではなかった。
翌朝目を覚ましたシャヒーダーが降り立ったのは、インドのクルクシェートラの町だった……。
クルクシェートラのハヌマーン寺院(猿の姿をしたヒンズー教の神)に巡礼に来ていた信心深く善良なパワン青年は、おなかをすかせていた迷子らしき少女を見つけるが、彼女は言葉を話せないし、読み書きもできないため、名前も住所もわからない。
警察に届けるも引きとってもらえず、仕方なくデリーの下宿先に連れ帰る。
しばらく一緒に暮らすうち、少女の振る舞いから、どうやら「ムンニ(お嬢ちゃん)」が異教徒のムスリムであり、敵対する隣国パキスタン国籍らしいということがわかるが、大使館のトラブルでパスポートもビザも下りない。
けれどもなんとかして「ムンニ」を両親のもとへ帰そうとハヌマーン神に誓ったパワンは、神の加護だけを頼りに、名前も詳しい出身地もわからない少女を連れて、パキスタンへと旅立つ……。
シャヒーダーの故郷、カシミールの山岳地帯が、スイスアルプスにも似て絵のように美しい。
しかしカシミールは、インドとパキスタン間の緊張走る紛争地帯だ。
映画は重苦しすぎる雰囲気にならないよう配慮されてはいるが、パキスタン出身のムスリムとわかったとたん、シャヒーダーはパワンの下宿先から追い出されてしまうし、パキスタンでの旅の途中、パワンはインドのスパイと疑われ追われる。
そんなふうに、互いに対立しあう宗教と民族を背負うふたりなのだけれど、シャヒーダーは刷り込みされた雛鳥のように全身全霊でパワンを信頼して身を預け、パワンは彼女をなんとしても無事に家に帰すため、身を挺して守り世話する。
そうしてムスリムの地を旅するうちに、パワンの心が次第に開き、自分とはちがう、と思っていた宗教と文化をもつ人びとの内側に、親切な心や愛、神への祈りといった、自分と変わらないものを見つけてゆく。
わたしの好きだったシーンは、イスラムの聖廟に詣でるところ。
最初はモスクに足を踏み入れることさえためらっていたヒンズー教徒のパワンが、旅の途中、願いの叶う霊験あらたかな聖廟があると聞き、「ムンニのためになるなら、ぜひ行こう」と言って、異教徒のなかに混じって祈るのだ。
聖廟にしつらえた壇上では、ハーモニウムとタブラの演奏を従え、アッラーの神に慈悲を祈る歌が歌われていた。
そのシーンではパワンの口から、ひと言の台詞も発せられない。
けれども、ムスリムに混じってムンニのために祈るパワンが、その歌のなかに、自分のハートのうちにあるハヌマーン神への献身や呼びかけと、まったくちがわないものを発見している、ということが、ちゃあんと伝わってくるのだ。
ネタバレを避けるために詳しくは書かないが、この聖廟のシーンはいろんな意味で、物語のクライマックスだと思う。
そしてもちろん、ラストシーンも、とてもよかった。
ここも、物語の締めくくりがどうなるのかは観てのおたのしみだが、最後にシャヒーダーとパワンの姿が静止画になり、カメラがすーっとズームアウトしていくと、主題歌が流れ始める。
そこで、
「きみの家の通りを探し歩いて ぼくの家を見つけた」
という字幕が目に飛び込んできて、わたしは「すごい歌だ!」と打たれたのだった。
この話は、ヒンズー教徒の青年が、ムスリムの少女の故郷に住み着く話ではなく、「バジュランギおじさん」ことパワン青年は、少女を家まで送り届けたら、婚約者の待つデリーへと帰っていくのだから、この「家」というのは、物理的な場所のことではない。
そうではなくて、異なるアイデンティティをもつふたりのなかに、まったくおなじ「ホーム」がある、ということを歌っているのだ。
かたちのうえでは自分と異なるように見える相手のなかに、自分自身と何も違わないものを見つけていく。
その旅路が、ひとびとを巻き込んで奇跡を起こしていく。
対立するかに見えるふたつのものの奥にある、たったひとつのものに呼びかける祈りが込められているのを感じる映画だった。
お近くで上映されていたら、ぜひ足を運んでいただきたい。
ちなみに、パワンとシャヒーダーが出会った場所は、クルクシェートラ。
映画のなかで、最初はパワンの婚約者の口から、後半ではパワン自身の口から、
「ギーターは読んだ?(見た?)」
と二度言及される、ヒンズー教徒の聖典「バガヴァッド・ギータ―(神のうた)」の舞台となっている場所だ。
ふたりの出会いをバガヴァッド・ギータ―ゆかりの地に設定したことも、とても暗示的だと感じた。
監督と、主演であるサルマン・カーンはムスリムだと思うから、イスラムの文化を知っていたら、ほかにももっと、物語のなかにちりばめられた象徴が、見つけられるのかもしれない。
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