ビザの話でいうと、フランシス・シュー(Frances Xu)のエピソードで、こんなものがあります。
5年間の宗教ビザで本格的にアメリカに移住しようとしたら、ぶ厚い申請書を出す必要があった、とか。
そこには、これまでの宗教的な活動やバックグラウンドを事細かに訊かれるそうなのですが、彼女には書くことが何もなかったそうです。
そこでひと言、「I am called.(神に呼ばれました。)」とだけ書いて提出したところ、ビザが下りたそうです。
書類に書くことがないなら、ビザなんて下りない、
(わたしの場合で言えば、ヨガの教師として申請しても、現地の人の就労の機会を減らすので、正規の居住ビザは下りない、)
だから、なんとか法のすきまを自分で縫って滞在しなければ……
という考え自体が、不自然なのだと思います。
ここで話しているのは、正規のビザがなければ滞在しては「いけない」、法律を破ってはいけない、というレベルの話ではなく、
「ビザは下りない。
なので、わたしは法を犯さなくてはならない。
さもなければ、意図する結果をあきらめなくてはならない。」
という不自然な考えのなかに、
罪悪感の保存やら、
神の全能性についての疑いやら、
「わたしにはこの世がどのように機能しているかわかっている」、という "I know" マインド、
「助けは来ないので、自分が自力でやらねばならない」という分離の想念まで、
それはもう、たくさんの信念があるのだと思います。
デイヴィッドは、そのような不自然で制限的な想念は必要ない、と言っているのではないでしょうか。
フランシスのもすごいですが、ビザのエピソードでわたしが、「なんだそりゃ! なんでもアリだな!」って思ったのは、田中百合子さんのお話です。
百合子さんはたしか、アメリカに移住したかったのに観光ビザしか下りなくて、お金は片道の旅費しかないのに、そのまま渡航してしまった!というものです。
でも彼女はなぜかアメリカで居住ビザを得たのです。
(入国してから観光ビザから居住ビザに変えられるって、そんなことある!?)
ポカーンとしてしまう話でした。
強いインスピレーション、ガイダンスが来て、この世的な常識で考えると
「え、でもどうやったらそんなこと可能??」
って思う場合にも、それが自我ではなく神の計画なら、方法は私たちの預かり知らぬ、思ってもみないところからやってくるのですよね。
フランシス・シューがのCRSでの講演で、
神が「これをやりなさい」と言うときに、するべきことだけ与えておいて、
「じゃあ任せたよ、それを実現する方法は、あとはきみがひとりで考えて!」
などと言うことにはならない、
何を(what)しますか?とだけ訊けば、どうやって(how)それをやるのかもちゃんと与えられる、
と話していたのを思い出します。
該当部分(12:05)から流れます。
(字幕設定をいじると、日本語字幕が出ます。)