👆この記事のつづきです。
果たして、お風呂上りに、その胸の疼きはやってきた。
居ても立ってもいられない、ぐるぐるとした感覚が胸に渦巻く。
掻きむしりたい!!
けれども「何もしない」、コントロールしない、と決めていた。
「肉体は何も感じない」というコースの文言がまた、心に浮かんできて、
「身体には感じることができないのだとしたら、これを感じているのは心にちがいない。
わたしはそれを身体に投影しない。身体の感覚ではなく、それが覆い隠している心の感じているものを、見たい!」
と強く思った。
そうして、衝動的に手を使ってしまわないよう枕を抱きしめベッドに突っ伏して、感覚の中へ、中へと歩み入っていった。
自らから進んでその感覚を、やさしく抱きしめにいくように。
同時に、これをどうにかしたい、なくなってほしい、という気持ちを手放すため、心のなかで降参するように両手を挙げて、一歩後ろへ、また後ろへ、と退き続けた。
中へ、中へと入っていく。
後ろへ、後ろへと退く。
その、言葉にすると一見、正反対のように思えることは、実はひとつのことであるように感じた。
すると、ある瞬間、自分がコントロールを完全に手放したのを感じた。
胸の感覚に対する抵抗が消えたのだ。
そして抵抗が消えたその瞬間、苦しみ、葛藤の感覚が消え、もとのオリジナルの悲しみだけが胸に残った。
「ああ、なんだ、悲しみ自体は苦しくない。
私が苦しんでいたのは、悲しみに抵抗していたゆえの摩擦のためだった」
と思ったその瞬間、その悲しみも消えた……。
ユルゲンの、「きみはほんとうに心から、悲しみを歓迎してはいないんじゃないかな」という言葉を思い出した。
ほんとうに、そうだったのだ。
その後、胸を掻きむしりたい衝動や、BGMのような悲しみが感じられることは、あった。
けれども、この体験を思い出し、「何もしない」、つまり、
「いつまでこの苦しみが続くんだろう」などと考えて、時間軸のなかに迷い込んだりせず、コントロールを手放して完全に「いまこの瞬間」に起きていることに寄り添うということ、
それを繰り返しているうち、起きる頻度も、感覚の激しさも、どんどん減っていった。
いま、あの頃のような、絶え間なくつづく悲しみのBGMは、聞こえていない。