こちら☝️の記事のつづきです。
自分以外の誰かの、一見不運と思えるニュースに接しても、「心が揺れない、ザワザワしない」というとき。
それにはふたつの可能性があり、ひとつは、相手を自分と一体の神の子として見ており、その完全さ、光、強さについての「真の共感」の立ち位置から見ているからで、ハートの内側に繋がりと安心感が感じられる、というケース。
そしてもうひとつは、相手から分離していて、「私は平気なのだけれど、私以外の誰かが苦しんでいる」と見えるケースだ、というお話でした。
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私たちの目に映る世界は、私たちが心に抱いている信念や思いがストーリーとして表現されているのですから、その世界に、傷つき、苦しんでいる人が見えるのなら、それは私自身が、損失や苦痛を信じているからにほかなりません。
それでは、心の奥底では、自分も損失や苦痛を信じているのに、目の前で苦しんでいる人の痛みを、わがことのように感じられないのは、なぜなのでしょうか。
それは、心の中をあきらかに見るのを、怖がっているからです。
心のふたを開いて光をあててみれば、パンドラの箱から飛び出す災いのごとく、飛び出してくるだろう痛みをつまびらかに見るのが怖いから、というのが理由のひとつ。
そして、もっと奥にいけば、その痛みが癒され手放されるとき、自分が何よりも大切にしている「この自分」という独立したアイデンティティを、手放すことになるのが怖いから、です。
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ただ、怖いのです。
怖がっている人を叱りつけても余計に怖がらせるだけですから、「どうして私は自分ごとと思えないのだろう」と責めたり悩んだりしても、はかばかしい効果は期待できません。
だから、私は怖がっているんだ、とまず気づいて、やさしい眼差しで接することは、とても大切だと思います。
やさしい眼差しで接する。
それは判断を脇に置いて、空手で向き合うということ、自分の内側で起きていることに無抵抗のまま敢えて分け入ってゆくこと、起きているかのように見えていることすべてを、残らず抱擁する姿勢です。
つまり、やさしい眼差しとは聖霊の眼差しであり、奇跡講座の言葉で言うなら、「聖霊とともに見る」ということです。
自分にはそのように見られない、と思えるのなら、心のなかで一歩退き、「あなたが私の代わりに、私のために見てください」と祈りながら見るということです。
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複雑に防衛の壁をめぐらせた心の、奥のほうへと入ってゆこうとするとき、私たちは、いちばん表層にあるものから扱うほかありません。
いちばん表層にあるのが、「この人のことを自分ごとと思えない。ハートに隔たりを感じる」というものであるなら、その、蓋をしている感覚とともに、静かにじっと留まる必要があります。
すると例えば、
「心を開いて見つめるのが怖い。
感じるのが怖い」
という感覚が上がってくるかもしれません。
そうしたら、その感覚にも同じ姿勢で向き合うのです。
するとその下から、
「実は私は、『自分ごとと感じられない』と思っていたその相手を苦しめている、まさにその状況を、自分自身を脅かすものとして見ていた。
苦しんでいたのは私だった」
という気づきが出てきて、さらにその下に、
「私は結局のところ、分離を手放したくはなかったのだ。
だから相手を自分とひとつと見たくはなかったのだ」
という発見があるかもしれません。
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けれども、その階段のどこにいるかに優劣の判断をする必要はなく、この例え話を出したのはつまるところ、階段の何段めと向き合っているように見えたとしても、私たちのすることは同じだからなのです。
やさしい眼差しで見つめるために、判断という武器を脇に置き、空になった手でまるごと抱きしめるということ。
それは聖霊の見方で見て、聖霊の考え方で考えるということ。
私たちが目指すゴールというものが、外に向かっても内に向かってもまったく攻撃心なく、愛ある眼差しで見ることができるような心の状態であるのなら、いま目の前にあることに向き合うための手段と、目指すゴールは同じものだということになります。
そのゴールは、階段をいちばん下まで降りていったところにあるように見えたとしても、ほんとうは、いまこの瞬間において、その手段を実践することのなかにあるのです。
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