先日、満月の瞑想会でご参加くださった皆さま、ありがとうございました。
今回、会のなかでシェアしていただいたトピックのひとつに、「自分ごとと思えない」というものがあったのですが、これついて少し掘り下げたいなと思ったので、今日はそのことを書いてみます。
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シェアしていただいたのは、その方が参加されている奇跡講座のクラスで、「自分以外の方のされている体験を、自分ごとと思いましょう」と教えていただいたが、他者の話を聞いても、特に心が揺れない、自分ごととは思えないことがある……というお話でした。
まず、他者が苦しみを感じているように見える状態に接しても、自分の心が揺れない、動揺しない、というケースには、ふたつの可能性があると思います。
ひとつは、相手の方の存在の光が見えていて、その方の強さを信頼できる、ぜったい大丈夫、と確信しているからこそ動揺しない、という「真の共感」に根ざしているもの。
もうひとつは、自分のことではない、対岸の火事として見ているから、というケースです。
このふたつのちがいは、その相手、または出来事を思うとき、自分が心のうちでどのような感覚を感じているかを見れば、明らかになるはずです。
前者の、真の共感の立場にいるから「心が揺れない」のだとしたら、ハートに安堵感やあたたかさを感じるでしょうし、相手が自分自身であるという繋がりの感覚や、相手の強さや、その存在の光に対する信頼が感じられるでしょう。
それは、この感覚のなかにずっといたい、と思えるような安らかな心持ちです。
一方、後者の「心が揺れない」の場合には、「私は平気だし、苦しんではいない。けれど、自分の外側に、苦しんでいる誰かがいる」という世界が見えます。
このとき、「心が揺れない」のは、分離と抑圧のためであり、平安なのではありません。
ハートの感覚に意識を向けてみれば、そこにあるのはホッとするような安堵感ではないのがわかると思います。
「苦しんでいるように見える」相手の方と、隔てられているかのような、壁があるような感覚が感じられるかもしれません。
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でもこれは、自覚があるにせよないにせよ、たいていの人が多かれ少なかれ持っている障壁ではないでしょうか。
例えば、家族や親しい友人の誰かに起きた出来事にはわがことのように心が動くが、テレビのニュースのなかの、顔も知らない誰かの不運には、それほど心は動かないかもしれません。
そのようなケースであるならば、手近にある、心の動くものから日々の赦しのプラクティスとして扱ってゆけばよいのであり(たぶん、それでも充分、赦しのネタには事欠かないはずです)、現在のところ心が動かない事柄について、心配したり、罪悪感を感じたりする必要はないのではないか、という話を、瞑想会ではお話ししました。
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けれども、実際、身近な人であれ、ニュースで報じられるのを聞いただけの見知らぬ人であれ、誰かのことを思ったとき「私はこの人のことを、自分ごととは思えない」と感じる際のハートの隔たりは、意識して、気づいていることができているときには、つらいものですよね。
そして、「分離がつらい、相手と繋がれない状態は心地よくはない」、そのことに気づいていることは祝福であり、手放すことが可能なところへと一歩近づいたということにほかなりません。
瞑想会のあと、参加された方々へのメッセージを書いているとき、「分離のつらさ、違和感を感じられているのなら、『自分ごとと思えない』こと自体を、『心をざわつかせる』トピックと同様、ワークの対象とすることは可能だなぁ」と思ったのでした。
長くなったので、つづく。
毎月、満月🌕の夜にzoomで瞑想会を開催しています。
4月の開催は、24日(水)の夜9時からです。
ご一緒できるのを楽しみにしています🕊️✨