「でも、ぜんぶ夢だった、ってことになると、さみしい気がします」
そんなようなことを、先日のナタリスの会で、いつも来てくれているKちゃんが言った。
ん?どういうところがさみしいの?と訊くと、
「例えば、えりこさんや、◯◯さんとか、せっかく出会ったひとたちもみんなみんな夢だった、夢から覚めたらいなくなっちゃう、ということになると、さみしいなと思っちゃいます」
あー、なるほど……。
「そうじゃないのよ」と私は言った。
ぜんぶ夢だった、というのは、えりこさんが夢だった、という話じゃないのよ。
ぜんぶ夢だった、というのは、だれもいなくならない、ってことなのよ。
もしこの世界が夢ではなかったら、えりこさんとはイコール身体だから、もし私が明日死んだら、Kちゃんはそれきりもう私とは会えない。
もし私が身体だとしたら、また外国に住むことになったら、離れて暮らすことになるから、これまでみたいにかんたんに会えない。
でもぜんぶ夢だった、というのは、私たちは身体ではなく、ひとつの心だから、ずーっといっしょにいる、いなくならない、離別もない、ってことなのよ。
私は身体ではないから、私の身体が死んでも私はいなくならない、ってことなの。
それから、私たち、どんな親しいひとのことも、完全にジャッジなしで見てないし、イライラしたり不満を抱いたりするし、人間関係で対立したりもする。
夢だった、というのは、そういうジャッジや対立や葛藤がぜんぶ夢だった、ということなのよ。
ほんとうのものは消えないのよ。
幻想が消えたら、いいものだけが残るのよ。
ぜんぶ夢だった、というのは、つまり、愛以外のものはぜんぶ夢だった、ということなのだ。
葛藤、対立、制限、剥奪、攻撃、欠落、不足、病気、離別、死。
そうしたものが、ぜんぶ夢だった、ということなのだ。
この件に限らず、コースを読んだり、またコース以外でも、真実についての教えを読んだり聞いたりするとき、私たちにそんなことを学んでほしくない自我は、そこで言わんとされていることに歪んだ解釈を与えようとする。
なんだか恐いことを言われている、と感じるなら、そのときは「私は間違った解釈をしている」と思って間違いない。
自分はいま、自我の解釈を聞いている、
だからここで言われているのは、私が思っているような意味ではない、
と気づいた上で、聖霊に、
「私は、この部分の意味を誤解しているようです。
ほんとうは、ここではどんなことを言っているのですか」
と訊いてみるのがオススメです
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静岡県藤枝市で開催している、ナタリスの会、2月の開催はまだ準備中ですが、日程は13日(月)10:30〜12:00です。
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