リシケシ、ラムジュラ地区、パルマート・ニケタン・アシュラム前のシヴァ像。
毎年洪水で流されるが、毎年きちんと再建される。
たまたま山中を散策していて通りかかったグルジの信者が、樹の内側で暮らすデーボを見つけたのだ。
そして、彼女をアシュラムに連れ帰った。
デーボはそこで、カーリー女神の祠を祀るための火の守をするようになった。
くだんの樹の写真を送ってくれたメールには、その祠と、デーボの「住居」の写真もあった。
カーリーの祠は、築山のような大きな岩の天辺に据えられており、その岩のふもとに、天井が高いが奥行きのごく浅い、コンクリートで作られたガレージのようなスペースがある。
(シャッターなどは、少なくとも写真からはあるように見えない。)
それを住居と呼んでいいのかわからない。
ぎりぎり雨風はしのげる……かもしれない、というかんじで、わたしの目には、洞窟や樹のうろに住むのとさして変わらないように見えた。
正面向かって左側の壁に炉が切ってあり、その炉の聖なる火が絶えないよう番をするのがデーボの役目だったそうだ。
インドやスリランカで、シャワーから水しか出ない安宿やアシュラム、電気さえない瞑想センターなどを経験しているわたしも、さすがにびっくりだった。
でも彼女にとっては、この半分屋外のような場所で心を神に捧げることが、ハートの求めることなのだ。
国際送金のために、一緒に出掛けた日からしばらくした頃だったと思う。
毎週曜日を決めて、一緒に瞑想しようと誘われて、彼女のアパートを頻繁に訪れるようになった。
当初の予定通りに瞑想もしたが、ほかにもいろいろした。
彼女が近所の神社で見つけた湧水を汲みに行ったり、わたしにエネルギーワークをしてくれたり、吹替版のジブリ作品をいっしょに観たり。
トースターを持っていなかったデーボが、ガスコンロの魚焼きグリルで焼いた、あまりおいしくはないクッキーがしょっちゅうふるまわれた。(余ると、おみやげ用にも包んでくれるのだった。)
同僚だったフィリピン人英語教師の、驚くほど大がかりなバースデイ・パーティにも、一緒に出掛けた。
ずいぶん親しくしていたように感じるけれど、それは冬の終わりから春の初めにかけての、ひと月あまり、ごく短い期間だった。
3月末には退職して、4月にスリランカへ渡航することが決まっていたわたしは、自分が去る前に、職場の外にデーボの知り合いを作っておいてあげたいと考えた。
そこで、デーボのアパートのすぐそばに住んでいた、中学時代の友人Kちゃんを紹介した。
Kちゃんは、すぐにデーボのことをとても気に入り、わたしが同席していなくてもデーボを訪れ、また自分のアパートにも招くようになった。
あるとき、Kちゃんが、「えりちゃん、デーボってすごく不思議な人だねぇ」と言ったことがある。
まあ、たしかにそれはそう、と思ったが、「どんなところが?」と何気なく聞き返したわたしは、返ってきたKちゃんの答えが、あまりに鋭くて驚いた。
「家に誰か来ると、その人が帰ったあとにも、その人の色みたいな、気配みたいなものがしばらく残るの。でも、デーボが帰ったあとには、何にも残らない。
まるで、誰も来ていなかったみたいな感じなんだよ」
結局、デーボはその後、日本に長くはいなかった。
わたしが去った後、紆余曲折があって、7月末にアメリカに帰ることとなったのだ。
でも、その後も、わたしたちはビデオ通話やテキストメッセージでたびたび連絡を取り合った。
デーボと日本で会っていた頃から、いつのまにか10年近い月日が過ぎたけれど、いまも心はとても近しいところにいる。
おしまい。