先月5月の瞑想会では参加者の方から事前に、
「幼少期の対人関係が、いまの自分の対人関係の原因となっていると感じる」
というようなトピックをお寄せいただき、それについてお話ししました。
いただいたトピックで当日の朝、瞑想して聖霊とつながり、やってくるメッセージをノートに書き記していました。
わたしたちの心には決断の力がある、ということ、
いまこの瞬間の体験の原因は、過去にあるのではなく、
いまこの瞬間の、「何を見たいか」の心の決断によっている…ということ、
よし、こういうかんじのお話をしよう……と決まったところで、突然、電話が鳴りました。
そのとき集中を乱したくなかったので、取らなかったのですが、それはわたしが、とってもとっても苦手な知人からの着信でした。
もうひとむかしも前に、そのひととのあいだに起きた出来事がいまだにトラウマで、ふだんは会うこともないので、思い出すこともないのですが、たまさかに連絡が来ることがあり、するともう、ほんとうに嫌な気持ちになるのでした。
その知人からの、一年ぶりの連絡が、瞑想会の用意のために聖霊からのガイダンスに耳を傾けている真っ最中にやってきたのです。
聖霊のメッセージはつねに、だれかひとりのためのものではなく、普遍的なものではあるけれど、それでも、
『今夜話すようにと、あなたが用意しているそのメッセージは、ほかの誰でもないあなた自身のためのものだ』
と言われたのだと、あざやかにわかりました。
知人からの着信を受けてのわたしの心の動揺は、
過去に「起きた」とわたしが思っている出来事のためではなく、
彼女のせいではなく、
いまこの瞬間、そこに罪を見ようとしているわたしの心の決断が原因であり、
わたしの心に決断の力があるのなら、私にはいま、ちがった決断が可能だということ。
それを、わたし自身の学びとして、「いま、もう一度向き合いなさい」と言われているのだと感じました。
この件に関しては、いまもまだ、祈りのなかにいます。
強烈な嫌悪感を、いまこれを書いているこの瞬間に感じてはいませんが、彼女のことを考えたとき、または実際にコミュニケーションをとっている最中に、
過去のことなど思い出せない
というところまで、彼女がわたしの救い主に見えるところまで、必ず到達したいと決意しています。
読んでくださって、ありがとうございました。
今月も、満月の夜に瞑想会を開催いたします。
ご一緒できますと、うれしいです。