
つづき
少し前の記事で書いたように、今回公開された『ウィキッド』(の、前半パート)を観て受け取ったメッセージは、前半のメイン・ソング(だと思う)で歌われているように、
この世界の重力に逆らって飛びなさい、
あなたのインスピレーションにのみ忠実に生きなさい、
というものだった。
自由に飛ぼうとする自分の足を引っ張るかに見える「この世界の重力」は、自分の外側に存在する何かの力のように思える。
でも結局のところそれは、ほんとうに自由になることを恐れる自分自身の心の投影にすぎない。
心のどこかに「あなたの理想に合わせて生きるかわりに、わたしのことを認め、愛してほしい」という取引があるとき、よしんば自分のインスピレーションを無視して「重力」に沿う生き方をしたとしても、「自分が愛と承認を求めた」はずのまさにその相手が、「自由に飛ぼうとするわたしの足を引っ張った」人となることを、避けることができない。
ハートのコーリングを無視して、誰かにおもねるとは、そういうことだ。
自分が犠牲者となることで、相手を加害者に仕立てるストーリーを作り上げること。
今回のスリランカのボスからの誘いを受けたとき、「断ることになるだろう」ということは最初からはっきりしていたのだが、それでもわたしには「自分の行きたい方向とちがう方向へと手を引っ張られている」、不快な感覚があった。
そして心をつまびらかに見てみるなら、その不快感は「外側の誰か(ボス)がわたしのハートとは異なる方向へとわたしの手を引こうとしているから」ではなくて、わたし自身が、彼女を、「取引の相手」または「わたしが飛ぶのを妨げる敵」と見なしているからなのだ。
その下にあるのは分離の信念、「わたしと彼女は、利害が一致しない」という信念だ。
「わたしがハートのコーリングに従うことは、彼女にとっては不利益になる」と思っている。また、「彼女の要求に応じるなら、わたしは自分のハートを裏切ることになる」、「そして、選択肢はこのふたつにひとつであり、どちらを選んでも、だれかが負けることになる」、そう思っているのだ。
ハートのインスピレーションが聖霊からのガイダンスだとするなら、そんなことがあり得るはずがない。
聖霊は、すべての神の子を祝福するのだから。
自分のハートに嘘をつかないことと、兄弟を敵ではなく友として見ることはひとつのことであるはずだ。
わたしは、この人を取引の相手や、敵にはしない。
そう思って、時間をかけて長いメールを書いた。
そこには、
わたしの道は、そもそもからヨガではなく、内なる導きに耳を傾け、従う、という道であったこと。
ヨガを学びに行ったのも、その道すじでそのように導かれたからであったこと。
だから、ヨガのティーチングを一生の仕事にするつもりがないこと。
また、人生のいまこの時点において、ヨガを教えるというインスピレーションは感じないし、ACIMの道を深く生きたいのだ、ということ。
でもあなたからの誘いを断るのは、あなたを大事に思っていないからでも、あなたから与えられたものに価値を見出さなかったからでもない、
仕事を辞めてまでヨガを学びに行ったり、なのにヨガの教師はもうやらない、と言ったり、傍から見たらわたしは何の一貫性もない行き当たりばったりな生き方をしているように見えるかもしれないけれど、わたしはただ内なる声に従おうとしてきただけ、
あなたと出会えたのも、スリランカが第二の故郷のようになったのも、内なる導きを信頼して従った結果で、だからこそこの道を歩いてきて良かったと思っているし、
この世界のなかで何かを成し遂げようとすることに自分の人生を使わなかったことに、満足している、
というようなことを書いた。
心をこめて書いたし、彼女にはわたしの言わんとするところが通じるはずだと思ってはいたけれど、それでもその晩は、返ってきた返事を開けぬままに就寝した。
翌朝開いてみると、そこには、わたしがスリランカに滞在した最初期の頃の、なつかしい写真が載せられていた。
それは最近亡くなった、彼女の親友のドイツ人男性とわたしが、彼女の生徒たちにもみくちゃにされて笑っている写真で、「この写真を、彼のメモリアル・ビデオに載せてもらったの」と書かれていた。
そして、こんな言葉が綴られていた。
「あなたが望む生き方を尊重しているし、無理に何かをさせようとは思っていない。
そのまま進みなさい、エンジェル。
あなたが言うように、私たちの旅はすでに書かれているのよね。私は、宇宙が私たちに用意してくれている計画に逆らったりしないわ。
でも私は知っているの。あなたが愛ある想いで私を支えてくれていること、そして私もあなたのためにここにいるってことを。スリランカの扉は、いつだってあなたのために開かれているからね。
たくさんの愛を込めて、私のエンジェルへ」

