先日書いた『ウィキッド』を観ての記事のなかで、今回の映画から受けとったメッセージは
この世界の重力に逆らって飛びなさい、
あなたのインスピレーションにのみ忠実に生きなさい、
というものだった、と書いた。

他者の思惑や期待が、自分の正直なハートのコーリングとは異なっているのに、それにおもねって生きたくなるとき、わたしたちは心のなかで取引をしている、と思う。
あなたの望みに沿ってあなたの期待する役割を生きるかわりに、わたしの価値を認め、愛してください、という取引だ。
そこには、他者の承認なしでは自分自身のなかに価値が見出せない、外側の何かで埋めなければ、わたしという存在は充分ではない、という思いが隠れている。
それが自分自身が望んで自分自身で持ち出した取引だ、ということをはっきり見ないまま、ハートのコーリングを無視して生きるなら、自分の本心とちがう生き方にフラストレーションや不自由さ、重荷を感じるとき、心のどこかで「自分以外の他者から、そのように生きることを強要されている」と感じることを避けることはできない。
映画を観る数日前、ある実務的な用事でスリランカ時代のヨガのボスと連絡を取ったとき、「ちょっと話したい」と先方から電話がかかってきた。
その電話口で、「スリランカに戻ってこない?」と誘われた。
半年ほど前にも「ヨガを教えるつもりはない、わたしはACIMに集中したいので」と断っているのだが、今回は説得され、「すぐにと言わないから、ちょっとしばらくちゃんと考えてみて」とねばられた。
いまここで、わたしとボスとの関係に長く筆を割くつもりはないのだけど(書くとしたら、noteの『セレンディピティ』で書く)、単に雇い主と雇われ人というドライな関係ではなく、彼女はわたしにとって縁の深い人物だ。
わたしのなかで、「いまスリランカにヨガを教えるために渡航することはない。そういうインスピレーションはない」ということはハッキリしていたのだけれど、何年ものあいだに渡って、たびたび誘われつづけるのは、わたしが断っているほんとうの理由を言っていないからだ、と思った。
わたしはコースの学びを生きたいのであり、ヨガを学びに行ったのも、その道筋で聖霊のガイダンスを受けたからであり、ヨガを一生の教えとして追うつもりがないこと、そういうスタンスで長期でヨガを教えるために渡航するということはまったくインスピレーションが感じられないのだということ。
でも、それをはっきり言うことは、彼女をガッカリさせるだろうなあと感じていた。
彼女にとっては、わたしは同じ道を行く同志であり、妹のように娘のように身内同然に可愛がっている弟子のような存在だと知っているから。
でも、自分にも相手にもほんとうに誠実でいるためには、はっきり伝えなければなあ……、そう思っていたところで『ウィキッド』を観たのだった。
つづく

